「どのように生きるか」を探して
こんばんは、よっぴーです。
たまには投資から離れて熱く語りたいと思います。
遡ること15年、時は2005年の夏になります。
政治史に残る小泉劇場の全盛期。永田町は解散総選挙に沸いていました。この時の争点は「郵政民営化」で、選挙についた名前は「郵政選挙」。選挙前は、造反議員、刺客、落下傘候補、選挙後は小泉チルドレンというワードが飛び交っていました。
懐かしいです。
私はすでに大学生でしたが、未成年でしたので選挙権は持っていませんでした。
が、その時の私の意見は「郵政民営化反対」です。
全国津々浦々に採算度外視で統一サービスを提供するのは、民間企業ではとてもできず、国がやらねば地方は廃れると思っていました。田舎における郵便局の存在感の大きさを感じる中、それを切り捨てる政策に、冷酷さと何でも合理化すればいいってものじゃないという反発を感じていました。
このことをご飯時にニュースを見ながら口にしたところ、父親、母親から「共産党みたいなことを言うな!」とちょっと強めに言われた覚えがあります。
そしてこの時から、私の思想についての旅が始まりました。世界に影響を与えた本を読むことで、その時々の風潮に流されず、自分の考えをしっかり持つことを目指したのです。
今までに読んだ本は、
・ジョン・ロック「市民政府論」
・ルソー「社会契約説」、「人間不平等起源論」
・J・S・ミル「自由論」
・フリードリッヒ・ハイエク「隷属への道」
・ミルトン・フリードマン「資本主義と自由」
・トマス・モア「ユートピア」
・新渡戸稲造「武士道」
ぱっと思いつく範囲ではこのくらいでしょうか。
さすがに哲学書までは手が出ず、教科書に出てくるようなメジャーどころで、比較的読みやすい本を選んでいました。
その結果、至高の価値観は「自由」と考えるに至りました。
そして、いよいよアイン・ランドの「肩をすくめるアトラス」です。
政府は小さく、国防と警察に重点を置き、民間活動には口を出さない。個人は、他人に危害を与えなければ自由にふるまってよい。これを理想として生きようと思うに至ったわけです。
自由と言うと、人のことを顧みない身勝手さというネガティブなイメージがありますが、そんなことはありません。私の言う「自由」とは、思想、行動に奴隷的な拘束を受けないという意味です。
誰からも強制されず、個人の意思で選択するため、その結果については自分で責任を取る。決して無責任な主義ではなく、責任を取るという意味では、現代の日本社会以上に厳しいのです。
それゆえに、何事も自分で決めなければならないという重圧、その結果を誰の責任にもできないという重圧に耐えきれずに「自由からの逃走」が起こるわけです。
私は、会社でもプライベートでもドライなことを言い過ぎて、「管理職になってはいけない」とか「血が通っていない」とか言われたこともあります。言った方は冗談半分だとは思いますが、傷つかなかったと言えばウソになります。
それでも、自分の意見を自分の意志で言った結果ですから、それは受け止めなければなりません。これは、自由に生きることの代償です。
周りに合わせて生きる方が、どれほど楽かと思うこともあります。自分のためとは決して言わず、あなたのため、誰かのためと言った方が尊敬もされるでしょう。
でも、そうやって生きることに私は息苦しさを感じてしまいます。そして、その息苦しさを感じながら生きるには、人生は長すぎるのです。
なので、私はこれからも「自由」であることを守るべき最上の価値観として生きていこうと思います。
それではまた!